起因
史書の一次史料から見れば、鍾会(しょうかい)・姜維(きょうい)の乱には独立しながらも交錯する二つの因果の連鎖がある。一つは鍾会の「功高くして主を震わす」という連鎖である。鍾会は司隷(しれい)校尉・鎮西将軍の資格で蜀征討を単独で主導し、蜀平定後は十数万の大軍を掌握し、さらに鄧艾(とうがい)・姜維という二人の「戦利品」を得た。司馬氏(しばし)自身の経験から言えば、このような局面では「君が臣を疑えば臣は必ず死ぬ」[c:17958]。もう一つは姜維の「敵を借りて蜀を復す」という連鎖である。姜維は剣閣(けんかく)でもともと鍾会の主力を阻んでいたが、鄧艾が陰平郡(いんぺいぐん)を迂回したことで蜀が滅び、姜維が鍾会に降ったのはやむなき事態であった。姜維は鍾会の野心を鋭く嗅ぎ取り、機を見て「韓信が漢に背かなかった」などの典故を繰り返し用いて反乱を勧めた[c:17958]。この二つの線索の合流が鍵であった。鍾会は益州(えきしゅう)を掌握するために現地で威望のある協力者を必要とし、姜維は兵権のある旗手なくして巻き返しの可能性がなかった。双方は互いに必要なものを得る形で、一時的な同盟を結んだ。
参与勢力
反乱側は実際には二つの集団で構成されていた。鍾会の本部魏軍将佐と、姜維が連れ戻した蜀漢(しょくかん)旧将である。鍾会側の中核的問題は部曲の忠誠であった。長史の杜預(とよ)と監軍の衛瓘(えい かん)は鍾会の真の立場に疑念を持っており、鍾会が杜預に対して姜維を「中土の名士と比べても、公休・太初には及ばない」と盛んに褒め称えた時、この評価はすでに姜維を「司馬氏と対立する」という政治的位置に暗に置くものであった[c:17958]。姜維側の中核は蜀漢旧将の隠然たる協力であった。『華陽国志』の記録は明確に示している。姜維の計画は「会に命じて北来の諸将を誅させ、彼らが死んだ後、徐々に会を殺し、魏兵を坑に埋め尽くして蜀の統治を回復する」というものであった[c:17958]。これは三段式の計画であった。まず鍾会の手を借りて魏軍の上層部を一掃し、次に鍾会を殺し、最後に蜀を復興するというものである。反撃側は司馬昭(しばしょう)・衛瓘・賈充(かじゅう)から成る中央反制の三角形に、洛陽(らくよう)の家眷を人質としていた司馬昭の隠れた筆頭牌が加わっていた。
関鍵的転換
経過から見れば、この事件の転換点は鍾会も姜維も魏軍中下層の帰郷への思いを見くびっていたことにある。鍾会は上層の指揮権を握れば部隊を統率できると思っていた。姜維は鍾会が動きさえすれば自分が寝返り、蜀漢が灰燼から蘇ると思っていた。二人ともある基本的な事実を見落としていた。魏軍主力の家眷は司馬氏の支配下にある洛陽と関中にあり、中下級の将佐は誰一人「益州牧」という掛け声のために一族を犠牲にする気などなかったのである。元宵節の宴で鍾盛(鍾会の子)が兵威をもって諸将に署名を迫り、一見成功したかのように見えたが、それは実は導火線に点火したに等しかった。鄧艾が槛車に押し込まれたという情報が広まり、衛瓘が使者の資格で城内に鍾会討伐の檄文を散布すると、部曲の反撃は時間の問題となった。結果は「魏の将士が憤激して、会と維を殺した」[c:17958]というものであった。この「下層の反発」という動力機制は、いかなる上層の調度よりも遥かに致命的であった。
鎮圧と結果
鎮圧の経緯から見れば、司馬昭は自ら手を下す必要すらなかった。衛瓘と自発的に蜂起した魏軍がすべてを解決した。司馬昭の事後処置は極めて冷酷であった。鍾会は斬首され、姜維の妻子はすべて誅殺された。裴注『世語』には姜維が「死の時に腹を裂かれ、胆は斗の如く大きかった」と記されている[c:17958]。この死後に切り開いて示すという細部は、司馬氏が姜維を「反乱の典型」として造形しようとした政治的宣示そのものである。戦略的帰結から見れば、反乱の失敗後、益州は数年にわたって衛瓘・田続(でんぞく)ら魏将が軍政を主持し、蜀漢の旧体制は完全に瓦解し、劉禅(りゅう ぜん)は洛陽に東遷され、蜀の地は正式に西晋の郡県化へと向かった。陳寿(ちんじゅ)は本伝の末尾を極めて抑制された筆致で締め括っているが、裴松之が複数の史料を追記し、「蜀人は今に至るも之を悼む」という集団的記憶を残している[c:17958]。
歴史的反響
裴松之は注の中で専ら姜維を弁護し、孫盛の「これは姜維のことを言っているのだ」という否定的評価に反論している。鄧艾が陰平郡を迂回した時も姜維は剣閣で鍾会の主力を阻んでおり「節を奮うことができなかった」わけではないと指摘した上で、「会は魏の将をことごとく坑に埋め大事を挙げようとしていた。維に重兵を授けて前駆とさせれば、魏の将が皆死んで、兵権が維の手にあれば、会を殺して蜀を復すことは難しくなかったはずだ」[c:17958]と述べている。この一段は中国の史評において「敗者を弁護する」稀有な典範であり、姜維の謀略の合理性を認めつつ「事に差牙あり」として成功しなかったことを惜しんでいる。現代の政治史の観点から見れば、鍾会・姜維の乱は「権臣の野心」と「亡国の遺志」という偶然の結合であった。鍾会だけを論じれば、姜維と手を組まなくとも司馬氏に清算されていたであろう。姜維だけを論じれば、鍾会の兵権なくして巻き返しの可能性は皆無であった。二本の線索の交叉が、劇的であるが成功率の極めて低い政治的賭けを生み出した。この事件が後世千年にわたって繰り返し議論されるのは、「功臣の運命」と「亡国の執念」という二つのテーマが同一の時間点に重ねて押しつけられているからに他ならない。いずれか一方のテーマだけであればこれほどの痛切さには至らない。両者が重なったことで、三国(さんごく)の結末に最も色濃い一筆が刻まれたのである。
