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興勢の役(こうせいのえき)

244年(正始五年) · 興勢山(こうせいざん)

正始五年(244年)春、魏の大将軍・曹爽(そうそう)は歩騎十余万を率いて駱谷から南下し蜀を討伐した。先鋒はすでに谷口に達していた。このとき漢中(かんちゅう)の守備兵は三万に満たず、蜀の諸将は大いに震撼した。鎮北大将軍の王平(おうへい)は「漢・楽二城を堅守して涪城(ふうじょう)からの援軍を待て」という意見を退け、まず劉敏(りゅうびん)と杜参軍を率いて興勢山(こうせいざん)の要衝を先占させ、自らが後詰を務め、さらに千人を黄金一線の援護に当てるという策を主張した。その後、涪城の諸軍と大将軍・費禕(ひい)が成都(せいと)から相次いで援軍に駆けつけると、魏軍は兵疲れし補給も続かなくなり、退却せざるを得なかった——これはまさに王平が事前に予測した通りであった。この戦役は曹爽の輔政(そうそうのほせい)期における最も重要な対外軍事行動であったが、名目上の統帥である曹爽の戦略的失敗に終わり、洛陽(らくよう)における彼の政治的威望を著しく傷つけ、五年後の高平陵の変(こうへいりょうのへん)での急速な崩壊への伏線ともなった。


興勢の役(こうせいのえき)

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曹爽骆谷伐蜀(244年(正始五年)):司马氏夺权 之子事件;涉及 曹爽、何晏、鄧飏、司马懿等;1 回/卷见于:史 ch.43。

登場人物: 曹爽(そうそう)、何晏(かあん)、司馬懿(しばい)、王平(おうへい)


地理

人物

深掘り解説

AI 分析

戦略的背景

正始五年(244年)、曹爽(そうそう)の輔政(そうそうのほせい)は五年を超えていた。内政面では司馬懿(しばい)を太傅に加えることでこの老臣を骨抜きにしていたが、外朝での名声と軍功においては著しく不足していた。曹真(そうしん)・張郃(ちょうこう)のように諸葛亮(しょかつりょう)と長期にわたって対抗した実績もなく、魏蜀の戦場を親身に経験したこともなかった。何晏(かあん)・鄧颺(とうよう)らの浮華派の幕僚は、大規模な蜀への遠征を強く推進したが、本質的には曹爽に「武功を打ち立てて政治的資本を固める」窓口を作るためのものであった。しかし蜀漢(しょくかん)は諸葛亮の死(234年)以来、蔣琬(しょうえん)・費禕(ひい)が相次いで政権を担い、「守りをもって攻めに代える」戦略に転換しており、漢中(かんちゅう)・涪城(ふうじょう)の防衛線は繰り返しの磨き合いを経てより成熟していた。「魏は戦いを求め、蜀は守りを固める」というこの態勢は、攻撃側にとって極めて不利なものであった。

双方の展開

曹爽は歩騎十余万を集め、長安(ちょうあん)方面から骆谷(らくこく)沿いに南下し、先鋒はすでに谷口に入っていた。骆谷道は秦嶺四道の一つで、谷は長く渓は深く補給は困難であり、古来より蜀に入る者が主軸にすることは稀であった。蜀方の守備兵は三万に満たず、主力は漢中鎮北大将軍王平(おうへい)が統帥し、前線の要衝は興勢山(こうせいざん)であった。現在の陝西省洋県の北に位置し、骆谷の出口の関門に当たっていた。蜀漢の諸将は一時期動揺し、漢・楽の二城に退いて守り、魏軍に境内への長駆を許して涪城(ふうじょう)方面からの援軍の時間を稼ぐべきという意見もあった。王平はこれを断固として否定し、漢中から涪城まで千里近くあり、魏軍が一旦陽平関を越えれば漢中盆地全体が収拾のつかないことになると主張した。その方策は、劉護軍(劉敏(りゅうびん))と杜参軍が主力を率いて興勢の険要に拠って正面から敵を防ぎ、王平みずから千人を率いて機動的な後方防御を担い、黄金一線に伏兵を置いて魏軍の迂回を防ぐというものであった。

決定的な判断点

この戦いの真の勝敗の分かれ目は戦場にあったのではなく、二つの選択にあった。第一に、蜀方が険要を堅守して敵を深く引き込まなかったことで、十余万の魏軍は狭い谷に押し込まれ、兵力の優勢を展開することができなかった。第二に、蜀方の補給線が短いのに対して魏方の補給線は長く、骆谷を通じての輸送は苦難を伴い、時間が経てば魏軍は必然的に自壊するということであった。王平は諸葛亮の歴次の北伐を親身に経験した老将として、秦嶺山地の補給の脆弱性について身をもって知っていた。彼が選んだ方策は、かつての諸葛亮の「隴右に出て正面を避ける」という論理と鏡像をなすものであり、地利によって時間を換え、時間によって敵を瓦解させるものであった。涪城の諸軍と費禕(ひい)が成都(せいと)から到着すると、蜀方の援軍が揃い、魏軍の戦略的機会は完全に消えた。曹爽の側では果断な決断が欠けており、強攻もできず、早めに退くことも惜しみ、「勝てなくても大損はしない」退出の窓口を逃してしまった。

結果と反響

魏軍は王平の予測通り「退還」したが、退却の過程で谷道が狭く補給が絶えたため人馬の死傷が多く、史書に十余万の衆が「折損甚衆」と記されるほどであった。曹爽の洛陽(らくよう)における政治的威信はこの戦によって大きく損なわれ、勝者の姿勢で反対派を圧することも、司馬懿一派に「浮華派の軍政能力」を批判する絶好の口実を与えることも防げなかった。蜀方はこの興勢の捷を「諸葛亮の死後初めての大規模な主動防御戦の成功裏の検証」と見なし、費禕が政権を担う時期の「むしろ辺境を守り、遠征せず」という方針をさらに強固なものとした。王平・鄧芝(とうし)・馬忠(ばちゅう)はそれぞれ一方を鎮守し、ともに名を著した。蜀漢の辺防は相対的に安定した十年に入った。

反事実推演

もし曹爽が司馬懿一派の諫めに従って出兵しなかったとすれば、五年後の政変の命運を避けることができたであろうか。おそらくできなかったであろう。問題はこの一戦にあったのではなく、彼の執政の全体的な路線にあった。浮華派の政治的孤立、宗室権力への過度の集中、禁軍人事の全面的な独占が、構造的欠陥の一群をなしていた。しかしもしこの戦いに勝利していたなら、少なくとも曹爽にとって三年から五年の政治的余裕を稼ぎ、司馬懿が存命中に適切な動く機会を見つけにくくさせることができたであろう。逆に、もし王平が漢・楽二城に退いて魏軍を境内に入れていたとすれば、最終的には補給の問題で退兵を余儀なくされたとしても、魏軍は「数百里の地を奪った」と称することができ、政治的宣伝において曹爽に台階を提供できたであろう。興勢山(こうせいざん)の真の歴史的価値は、一方では曹魏(そうぎ)の蜀に対する最後の大規模な主動攻撃を終わらせ、他方では曹爽を高平陵(こうへいりょう)の断崖へと追いやったという点にある。この二つの意味は244年の春には互いに無関係に見えたが、後から振り返れば、ほぼ同じ因果の連鎖上の二つの節点であった。