卑彌呼
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卑彌呼(ひみこ)は倭国の女王で、鬼道を用い、魏に使者を送り親魏倭王に封じられたことで知られる。
出典
原典に卑彌呼が登場する箇所
正史 · 巻 30『三国志』
乃共立一女子爲王,名曰卑彌呼,事鬼道,能惑衆。
正史 · 巻 30『三国志』
卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人。
正史 · 巻 30『三国志』
景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,
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史載(歴史記録)
『三国志(さんごくし)・魏書・倭人伝』によれば、倭国では長期にわたって争いが続いていたが、人々は卑彌呼を女王に共同で推戴した。彼女は「鬼道に仕え、よく人々を惑わせた」とされ、これによって倭国に支配を築いた。史料には、その儀式や政令、日常生活の詳細について、それ以上の説明はない。 景初二年六月、卑彌呼は大夫の難升米らを郡に遣わし、天子のいる地へ赴いて朝献することを願い出た。郡太守の劉夏は役人を遣わし、使者を都まで護送させた。
同年十二月、魏の明帝は詔を発し、倭の女王に返答した。卑彌呼を「親魏倭王」に封じ、金印紫綬を授け、錦、罽、刀、鏡および宝物を賜った。随行した使者の難升米と牛利も、それぞれ封じられ、印綬を賜った。 正始元年、太守の弓遵は梯儁らに詔書と印綬を持たせて倭国へ遣わし、卑彌呼に授けた。卑彌呼は使者を遣わして上表し、魏の朝廷からの恩詔に謝意を表した。 正始四年には、伊聲耆、掖邪拘ら八人を使節として遣わした。
卑彌呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼(ひみここ)と以前から不和であり、両者が衝突した際には、載斯、烏越らを郡へ遣わし、互いに攻め合っている状況を報告させた。 その後、卑彌呼が亡くなると、国中の人々は彼女のために大きな塚を築いた。墓の直径は百余歩で、百余人の奴婢が殉葬された。彼女の死後、倭国では一時、別の男王を立てたものの国中が従わず、互いに殺し合った。その後、卑彌呼の宗女で、わずか十三歳の壱与(いよ)を王に立てると、ようやく国中が安定した。
演義での描写(小説)
演義にはこの人物は登場しない。現存する演義の記述には、卑彌呼の作中での登場や言動、文学的な人物造形に関する情報がない。そのため、彼女が戦に加わったり、三国の人物と交流したり、その他の小説の筋書きを経験したりしたと描くことはできない。本伝で語ることのできる卑彌呼の事績は、『三国志(さんごくし)』に記された倭国の政権、魏と倭の交流、および彼女の死後の継承をめぐる情勢に基づくものであり、演義の場面によるものではない。
主要な関係
卑彌呼と魏の朝廷は、使者の派遣、封爵、詔への応答を通じて結びついていた。彼女は難升米らを朝献に遣わし、明帝から「親魏倭王」に封じられた。その後、梯儁らが奉じてきた詔書と印綬を受け取り、使者を遣わして謝恩した。これらの記録からは、魏の朝廷が彼女を倭王として認め、その称号を授けたこと、また彼女が使節を通じて魏との交流を維持したことがうかがえる。
倭国内外との関係では、彼女は狗奴国の男王、卑弥弓呼(ひみここ)と不和だった。衝突の状況は、載斯、烏越らが郡府に報告した。 彼女の死後、後継者となった壱与(いよ)は彼女の宗女である。男王の即位によって国中に不服が広がったが、壱与が王位を継いだ後にようやく情勢が安定したことから、女王の位が倭国の秩序と密接に関わっていたことがわかる。
象徴的な場面
一つ目は、景初二年の使者による朝献である。卑彌呼は難升米らを郡へ遣わして入朝を求め、同年、魏の朝廷は詔書によって彼女を親魏倭王と認め、金印紫綬を授けた。朝献と冊封は、彼女と魏の朝廷との関係を示す最も明確な一連の出来事である。
二つ目は、正始元年の詔を奉じた授爵である。梯儁らは詔書と印綬を携えて倭国に到着し、卑彌呼は冊命を受けると、すぐに使者を遣わして謝意を伝えた。その後も彼女は魏へ使節を派遣しており、両国の交流が一度の朝献で終わらなかったことを示している。
三つ目は、彼女の死後に築かれた巨大な墓と、継承をめぐる危機である。卑彌呼の死後、百余歩の大きさの塚が築かれ、百余人の奴婢が殉葬された。即位をめぐる混乱から国内で殺し合いが起きたが、幼い壱与(いよ)が王に立てられて、ようやく安定を取り戻した。

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