臨終の状況
伝記作者として建安五年の丹徒(たんと)を振り返ると、孫策の暗殺(そんさくのあんさつ)というこの瞬間が歴史上持つ重みは、暗殺行為そのものをはるかに超えている。当時、孫策(そん さく)は「許都(きょと)を奇襲して漢帝を奉迎する」という戦略行動を密かに準備していた。これは江東統一・廬江(ろこう)奪取の後に彼が企てた最も野心的な北上計画であり、曹操(そうそう)と袁紹(えんしょう)が官渡(かんと)で相持している隙に東南方向から中原へ突撃しようとするものであった。しかし行動がまだ始まらないうちに、丹徒(たんと)西山での通常の狩りの最中に許貢(きょこう)の門客の突然の奇襲を受け、数槍を受けて頬に矢が刺さった孫策(そん さく)は重傷から回復することができず、数ヶ月のうちに死去した。場所から見れば、丹徒(たんと)は長江南岸に位置し江北揚州前線に隣接する戦略的要地であり、孫策(そん さく)が北上の準備を点検する拠点であった。時間から見れば、それは彼個人の事業が頂点に達した正にその瞬間であった。
遺言・遺命
正史には孫策(そん さく)の詳細な臨終の言葉は保存されていない。『三国志(さんごくし)』本伝の記述は極めて簡略である。しかし裴注の引く諸伝と後世の史家の整理によれば、孫策(そん さく)は最後の段階において二つの決定的なことを行った。第一に、張昭(ちょうしょう)・周瑜(しゅうゆ)ら古参重臣を床頭に召して、江東を弟の孫権(そん けん)に明確に委ね、「賢を挙げて能を任じ江東を保つ」ことを治政の方針として強調した。第二に、孫権(そん けん)に印綬を授け、合法的な権力の引き継ぎを完成させた。この二つの行為が意義深いのは、孫策(そん さく)本人が病死ではなく暗殺によって突然倒れたにもかかわらず、この突発的な危機を穏やかな権力移行へと転化するだけの十分な冷静さと判断力を保っていたことである。これがまた「孫策(そん さく)の後事委託」が三国(さんごく)の託孤事件の中で最も成功した例の一つとして位置づけられる理由でもある。
死後の事態
孫策(そん さく)の死後の江東の状況は彼の遺命の正しさを証明した。孫権(そん けん)は張昭(ちょうしょう)・周瑜(しゅうゆ)の補佐のもとで速やかに政権を安定させ、許貢(きょこう)の残党は排除され、地方における反乱の芽は抑え込まれた。曹操(そうそう)は当初、江東を呑み込むべく南下しようとしたが部下に諫められ、逆に通婚(曹仁(そうじん)の娘を孫匡(そん きょう)に嫁がせる)によって孫氏を懐柔した。その後八年間、孫権(そん けん)は父兄が残した領土を消化しつつ軍政を整え、208年の赤壁の戦い(せきへきのたたかい)の時には劉備(りゅうび)と連合して曹操(そうそう)を打ち破ることができるまでになっていた。孫策(そん さく)の死は彼個人の「許都(きょと)北上奇襲」計画を終わらせたものの、客観的には江東の実力を温存した。早まって北上した孫策(そん さく)が曹操(そうそう)との直接対決で挫折していた可能性があるのに対し、江東を固守した孫権(そん けん)は逆に江東を三足鼎立の一極へと育て上げたのである。
歴史的評価
歴代の史家における孫策の暗殺(そんさくのあんさつ)への評価は惜惜しむ気持ちと反省の眼差しを兼ね備えるものが多い。陳寿(ちんじゅ)は「軽佻にして果躁、身を失い敗亡を招いた」と評し、彼の性格的欠陥が惨事を直接招いたと指摘した。自らが衆目の的となっていた時に依然として軽装で狩りに出かけ重護衛を置かなかったのである。郭嘉(かくか)がかつて「孫策(そん さく)は必ず小人の手にかかって死ぬ」と予言したのも、「軽率で備えなく性急で謀少なし」という性格判断に基づくものであった。政治的後果から見れば、孫策(そん さく)の暗殺は逆に江東が曹操(そうそう)と早期に決戦することを回避させ、孫権(そん けん)が長江固守を核心とする水軍体系を築く時間を与え、後の赤壁の戦い(せきへきのたたかい)と江東の長期立国を可能にした。この観点から見れば、この暗殺には悲劇の外にもう一つの歴史的な逆説がある。官渡の戦い(かんとのたたかい)の結末を書き換えたかもしれない事件が、当事者の死によって逆に三国(さんごく)の格局を最終的に成形させたのである。今日の読者にとって孫策(そん さく)の暗殺が最も考えさせるのは「もし彼が死ななければどうなったか」ではなく、二十六歳にして一国の礎を築いた天才が、なぜ自分が処刑した旧太守の家客によって殺されることになったのか、という問いである。「覇者が細部によって死す」というこの命題は、漢末の政治指導者を研究する際に繰り返し現れるモチーフである。
