魚豢

魚豢(ぎょかん)は魏の『魏略』の著者で、人物の事績や政治・学術・行義への論評で知られる。
登場
正史 8 巻
史載(Historical Record)
魚豢は魏の人で、史料では『魏略』の著者、また史論家として登場する。裴松之の注が『魏略』を引く際、魏代の人物や学問、風俗についての魚豢の記述と論評が保存されている。現存する史料には、魚豢の出身地や仕官歴、生没年は記されていないため、官職や生涯を補って述べるべきではない。
魚豢の論評は、人物の事績から政治の風潮を論じることが多い。秦朗(しんろう)や孔桂(こうけい)ら寵愛を受けた者について論じる際には、徳も功績もないのに栄禄を得ていると批判し、上に立つ者がみだりに授けず、下にいる者がみだりに受けなければ、職にあって何もしない者や、よこしまな者が増えるのを防げると述べている。娄圭(ろうけい)について論じた際には、鳥と網にたとえ、大魏の興隆は少数の功臣だけの功績ではなく、多くの人々が従い、力を貸したことにもよると指摘した。この二つの論評には、権力と功名への批判とともに、集団の協力を重んじる姿勢が表れている。
魚豢は士人の節操や学業についても、意識して記録している。孫賓碩(そんひんせき)らを『魏略・勇侠伝』に収め、その義ある行いを称賛したうえで、こうした事績を記録したのは、埋もれてしまうのを防ぐためであり、風俗を厚くすることも願ってのことだと説明している。隗禧(かいき)について記す際には、隗禧が天下の兵乱はまだ収まっていないと魚豢に語ったことが記されている。また魚豢は隗禧に『左氏伝』について教えを請い、関連する論賛では学問には根気強く取り組む必要があると強調している。魚豢は傍観者として人を評するだけではなく、親しく教えを求めてもいたことが分かる。また、曹植(そうしょく)兄弟の不和についても論じ、置かれた境遇や勢力関係が人心に影響を及ぼす以上、すべての責任を単純に個人へ帰すべきではないと述べている。
その論述の範囲は、政治上の人物に限られない。王粲(おうさん)、繁欽、阮瑀(げんう)、陳琳(ちんりん)、路粹ら文士を評し、当世の文章や弁才は前代に劣らないものの、時代が異なるため同等の評価を得られなかったのだと嘆いている。また、『魏略・西戎伝』の末尾では異民族についての見聞を論じ、それを通して人の見識が地域や寿命によって限られることを考察している。これらの史料からは、魚豢が人物の事績を編録するだけでなく、論賛を通じて人材登用、学業、義ある行い、文学、そして認識の限界について論じていたことが分かる。
演義中(In the Novel)
演義には魚豢は登場しない。現存する演義の資料は空であり、小説を根拠に魚豢の登場や言動、物語を補うことはできない。その人物像は、史伝に見える『魏略』の著述者、論評者としての範囲に限るべきである。
主要な関係
魚豢と隗禧には、直接の問学関係がある。隗禧が兵乱はまだ収まっていないと語る一方、魚豢は隗禧に『左氏伝』について教えを請い、『詩』学についての講義も聞いた。史料には師弟あるいは学友のような教えを求める場面が描かれているが、二人がいつ知り合ったのか、どの程度交流したのかは記されていない。
記録の対象として、魚豢は論評者の立場から秦朗、孔桂、娄圭ら魏の朝廷の人物に言及し、孫賓碩、楊阿若(ようあじゃく)、鮑出(ほうしゅつ)ら勇侠の人物を記している。また、文士たちについても個別に論評している。こうした関係は小説が描く個人的な交遊ではなく、『魏略』の記述や論議が扱った人物の範囲を示している。
象徴的な場面
魚豢の史論の筆法を最もよく表すのは、「鳥が遠くまで飛ぶには、多くの羽に助けられなければならない」というたとえを用いて魏国の興隆を論じた場面である。功臣が重要なのはもちろんだが、多くの人々の助力もまた、事を成し遂げる基盤になりうると述べている。もう一つ印象的なのは、隗禧に教えを請う場面である。隗禧は『易』『礼』『詩』にはそれぞれ長所があると答え、魚豢は学者の言葉を直接聞いた記録を残すとともに、学びを中断してはならないと論じている。
勇侠の人物を編録したことにも、史家としての明確な意図が表れている。孫賓碩が趙岐(ちょうき)を救ったことや、鮑出が危険を冒して母を取り戻したことなどを勇侠の記録に収めた。魚豢は、遠くは孫や祝、近くは楊や鮑を記したのは、その義ある行いが埋もれないようにし、風俗を厚くするためだと説明している。こうした著述の場面が一体となって、人物の物語を通じて時代の記憶を保存し、簡潔なたとえや論賛によって自らの判断を示す魚豢の姿を浮かび上がらせている。