史載(Historical Record)
王平(おうへい)は蜀漢(しょくかん)期の将であり、その生涯の事績は史書にあまり記されておらず、主として諸葛亮(しょかつりょう)の死後における蜀漢内部の権力闘争のなかに見える。『三国志(さんごくし)』の記載によれば、諸葛亮は五丈原(ごじょうげん)で病が重くなった際、ひそかに死後の退軍の指揮を取り決め、長史の楊儀(ようぎ)、司馬の費禕(ひい)、護軍の姜維(きょうい)らに任せ、特に魏延(ぎえん)に殿軍を、姜維をその次とし、もし魏延が命に従わなければ軍は自ら撤退すべしと指示した c:7041。
諸葛亮の死後、その死を秘して喪を発せず、楊儀は費禕を遣わして魏延の意図を探らせた。魏延はそのとき、丞相は亡くなったが自分はなお健在であり、楊儀らは霊柩を運んで葬ればよく、自分は軍を率いて引き続き賊を討つべきで、一人の死によって天下の大事を廃すべきではないと述べた。さらに、なぜ楊儀に統率され、自分が殿軍を務めねばならぬのかと問いただした。魏延は費禕とともに行軍の配置を協議し、費禕に手書させて自分と連名で諸将に告げ知らせようとした。費禕は偽って承知し、魏延のために楊長史に説明すると言い、楊儀は文官であって軍事に通じておらず、必ず魏延の意に背くことはないと述べた。費禕はただちに馬で立ち去り、魏延は後悔したが及ばなかった c:7041。
魏延は斥候を遣わして楊儀らの動きを探らせたところ、彼らが諸葛亮の定めた方針に従い、各営が順次軍を率いて撤退しているのを知った。魏延はこれに大いに怒り、楊儀が兵を発するのを待たず、自らの部隊を率いてまっすぐ南へ撤退し、道中で桟道を焼き払った。魏延と楊儀はそれぞれ上表して互いを謀反と非難し、一日のうちに檄文が交錯した。後主の劉禅(りゅう ぜん)はこの件について侍中の董允(とう いん)と留府長史の蔣琬(しょうえん)に問うたが、二人とも楊儀を保証し、魏延を疑った。楊儀らは山を切り開いて道を作り、昼夜兼行で魏延の後を追った。魏延が先に南谷口に到達し、兵を出して楊儀らを迎え撃った。この肝心なときに、楊儀は王平に前線で魏延を防がせた。王平は魏延に面と向かって叱責した。「丞相が亡くなったばかりで、亡骸もまだ冷えぬというのに、お前たちはどうしてこのようなことをするのか!」魏延の部衆は魏延に理がないことを知り、皆その命に従おうとせず、軍はたちまち崩れ散った。魏延はわずか数人とともに漢中(かんちゅう)へ逃れるほかなかった。楊儀は馬岱(ばたい)を遣わして魏延を追討させ、その首級を持ち帰らせた。楊儀は自ら魏延の首級を踏みつけ、その三族を滅ぼした c:7041。
演中(In the Novel)
『三国演義』では、王平の人物像はさらに肉付けされ、とりわけ諸葛亮の死後における魏延との衝突において、より積極的かつ重要な役割を演じている。小説は、王平が兵を率いてまっすぐ南谷に至り、太鼓を打ち鳴らして喊声を上げたと描く。魏延は、楊儀が先鋒の王平に兵を率いて槎山の間道から回り込ませ挑戦してきたと知ると、激怒して武具を着けて馬に跨り、刀を提げて兵を率いて迎え撃った。両軍が対峙すると、王平は馬を進めて魏延を「反賊」と罵り、魏延は逆に王平が楊儀を助けて謀反していると罵った c:7038。
王平は陣前で声高に魏延を叱責した。「丞相が亡くなったばかりで、亡骸もまだ冷えぬのに、お前はどうして謀反を起こすのか!」続いて鞭を挙げて魏延の川兵を指し示し、彼らに諭した。「お前たち兵士は皆、西川の者であり、川中には多くの父母妻子、兄弟親朋がいる。丞相は在世の折、お前たちを薄遇したことはない。今、反賊を助けてはならぬ。それぞれ故郷に帰り、恩賞を待つがよい。」この言葉は極めて扇動的で、魏延の多くの部衆はこれを聞くと一斉に喊声を上げ、大半が散り去った。魏延はこれを見て激怒し、刀を振るって馬を駆り、まっすぐ王平に斬りかかった。王平は槍を構えて迎え撃ち、数合も戦わぬうちに偽って敗走し、魏延は後を追った。このとき、王平の部衆が弓弩を一斉に放ち、魏延は馬を返して退かざるを得なかった。彼は自軍が次々と崩れ散るのを見て、怒りに転じて馬を駆って追いかけ、数人を斬ったものの、崩壊の勢いを止めることはできなかった。このとき、ただ馬岱が率いる三百人だけは微動だにしなかった。魏延は馬岱に言った。「公が真心から私を助けてくれるなら、事が成った後、決して裏切らぬ。」その後、魏延は馬岱とともに王平を追撃した。王平は兵を率いて疾走して立ち去った。魏延は残兵をかき集め、馬岱と曹魏(そうぎ)に降ることを協議したが、馬岱はみずから覇業を図るよう勧め、魏延とともにまず漢中を取り、次いで両川を攻めたいと述べた(演義独自) c:7038。
主要な関係
* 王平と楊儀:王平は楊儀の部将であり、諸葛亮の死後の権力闘争において、王平は断固として楊儀の側に立ち、命を受けて前線で魏延を防いだ。史実の記載では、王平の魏延への叱責が、直接魏延の部衆の崩壊を招いた c:7041。演義では、王平はさらに楊儀の先鋒として、魏延と直接の軍事的対決と言葉の応酬を展開し、その言葉の攻勢が魏延の軍心を瓦解させた c:7038。
* 王平と魏延:両者は直接の軍事的対立関係にある。史書では、王平は楊儀陣営において魏延を正面から阻止する鍵となる人物であり、その一言「公亡くなり、亡骸もまだ冷えぬのに、お前たちはどうしてこのようなことをするのか!」が直接魏延の部衆の離散を招いた c:7041。演義では、王平と魏延の衝突はより激烈で、言葉による叱責だけでなく、短兵相接の戦闘もあり、王平は偽りの敗走と弓弩の一斉射撃によって、さらに魏延の戦力を削ぎ、最終的にその敗走を招いた c:7038。
象徴的な場面
* 南谷口での魏延への叱責:これは王平が史書において最もよく知られる場面である。魏延と楊儀の衝突のなかで、王平は楊儀の命を受け、南谷口で魏延に対峙した。彼は声高に魏延を叱責した。「丞相が亡くなったとはいえ、亡骸もまだ冷えぬのに、お前たちはどうしてこのようなことをするのか!」この言葉が発せられると、魏延の部衆は魏延に理がないことを深く知り、軍心は乱れ、次々と離れ去り、直接魏延の敗北を招いた c:7041。
* 陣前で魏延の軍心を瓦解させる:『三国演義』では、王平は南谷で魏延と対陣した際、直接魏延を「反賊」と叱責するだけでなく、さらに魏延の川兵に利害を諭し、彼らの故郷が西川にあり、丞相が在世の折に薄遇しなかったのだから、反賊を助けるべきではないと指摘した。この言葉は極めて扇動的で、魏延の部衆を大半散り去らせ、魏延の軍事力を大きく削いだ。これは演義における彼の象徴的な場面である(演義独自) c:7038。
* 偽りの敗走で敵を誘う:演義では、王平は魏延と数合戦った後、偽って敗走し、魏延を誘い込んだ。続いて、王平の部衆が弓弩を一斉に放ち、魏延は馬を返して退かざるを得ず、さらに魏延の士気と兵力を打撃した(演義独自) c:7038。
人間関係
0 件の関係
无
名言
全 4 件の台詞 · 厳選 3 件
「丞相新亡,骨肉未寒,汝焉敢造反!」
この台詞の「骨肉未だ冷めやらず」はすでに慣用句となって広く伝わっており、極めて高い文化的識別性を備えている。
「公亡,身尚未寒,汝輩何敢乃爾!」
この台詞は正史に由来し、「骨肉未だ冷めやらず」の原典であり、歴史的意義を持つ。
「汝等軍士,皆是西川之人,川中多有父母妻子,兄弟親朋。丞相在日,不曾薄待汝等,今不可助反賊,宜各回家鄉,聽候賞賜。」
この台詞は王平(おうへい)の降伏を勧める知恵と弁舌を示し、その人物像を形作っている。
登場回2 回 ▸
- 史ch.40
- 演ch.105
内面の独白 · AI 生成1 段 ▸
- 私は前軍を任されていた。丞相が亡くなったばかりだというのに、諸軍はすでに、それぞれ進退について思案していた。丞相は生前、楊儀(ようぎ)、費禕(ひい)、姜維(きょうい)らと撤退の手順を定め、私に殿軍を務めさせ、姜維をその次とした。魏延(ぎえん
生涯の大事1 ▸
- 0234-01-01 · 南鄭(なんてい)魏延の死(ぎえんのし)· 武将